上杉鷹山公と
かてもの

今をさかのぼること約200年前、上杉家第9代藩主上杉鷹山公は、凶作に備える施策として「かてもの」という食の手引書を編纂し、藩内に配付しました。
この手引書のおかげで、米沢のみならず他県にまで広く食糧事情を救うために役立ちました。
上杉鷹山公とは、どのような人物だったのか?
そして鷹山公直伝の食の手引書「かてもの」の内容は?少しずつ紐解いてみましょう。

米沢の名君
上杉鷹山公とは?

鷹山は宝暦元年(1751)7月20日、日向国(宮崎県)高鍋藩6代藩主秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷に生まれた。

米沢藩8代藩主重定には世継ぎがなく藩財政も逼迫し、重定は幕府に封土に返納を決意したほどだった。この窮乏期に高鍋藩から養子に迎えられ、17歳で藩主となったのが鷹山である。

鷹山は藩の経済再建を目標に、直ちに藩政改革に着手し、藩の復興のために生涯を捧げる覚悟だった。

鷹山は、35歳の若さで隠居し治広に家督を譲った。その時、治広に贈ったのが「伝国の辞」と呼ばれる君主の心得である。

その後、文政5年(1822)、72歳で死去するまで10代治広、11代斉定の政治を補佐・指導し、藩政の安定に生涯をかけたのであった。
米沢の郷土料理の原点「かてもの」とは?

飢饉に備えた
鷹山公の知恵

鷹山公の時代、飢饉による凶作から起こる領民の飢えを救う工夫が凝らされました。そのひとつは貯蔵米を多くすること、そしてもう一つが、米・麦以外に食糧を求めることで、主食のかてとして食べられるものを広く研究し、その食べ方、貯蔵方法などが考えられたのでした。

「かてもの」の研究は、鷹山公が天明3年の凶作以来藩医に命じて進められたと言われ、その後、本草家・佐藤平三郎に検討を依頼するなどの長い実験期間を要しました。
その成果を藩医によってまとめられたのが「かてもの」で、版木をおこして1,575部を発行し領内に配布しました。

郷土料理として
受け継がれて

内容は主食のかてになる植物82種をあげて、その食べ方を詳しく説明し、また味噌の製造法各種、蒔いておくとよいもの、数年置いても食べられる干物、そして最後に魚・鳥・獣の肉についても述べられています。

この書はその後の大飢饉に大いに役立ち、米沢地方のみならず、他県にまで広く食糧事情を救うために役立ちました。この教えの多くは郷土料理として今に伝えられ、米沢地方では生活に脈々と息づいています。

※「かてもの」とは、主食にまぜて炊くものの意で、主食を増量して空腹を癒すことが目的。

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